かつおの猫缶

心が通じた動物たちとは今でも、私の身体の内側で一緒に生きています。
あの魂たちが私と日々をともに居てくれると、たしかに感じとり信じています。
自分がこの魂で地上に誕生できたこと、

動植物の心に寄り添える身体で生まれたことが真に幸せと想え、両親に感謝します。

2018年8月16日に生涯の宝となる雌の鳩に出会いました。
これまでに暮らした猫たち、友情を交わした雀たち、そのほかのみんなが宝です。
なかでも彼女は、ほかの宝たちに並びながら際立って、強烈に私を捉えそして去りました。

いま想えば、私の「生命の危機」であった時期の支えでもありました。

あれは天からの使者だと感じられ、またその生きざまが私の「師」となりました。
会えなくなった花の盛りの季節から、梅桜(うめさくら)ちゃんと呼んでいます。
あの賢さと、美しい瞳と、微笑むような顔立ちを、私は私が永眠するそのときまで忘れることなく共に在りつづけることでしょう。
この鳩とはほぼ毎日会えていましたが、今年の3月5日が最後になりました。
彼女が初めて現れたとき、その両足には黒い糸がグルグルと巻きついていました。
片足ずつ巻きついて、さらに両足をまた糸がつないでしまった状態。

はじめにその両足にかかる糸をちぎり、それから少しずつ巻きついた糸を取りました。

けれども、指先のものは取れても足の上部は(おそらく)取りきれませんでした。
次第に足はうっ血で腫れ上がり、糸は食い込み埋まり、そのスジ模様が見えるばかり。
指を次々に失い、残ったのは両足とも2本のみ。

アヒルの足のように腫れた足、かがむ姿勢でありながら群れの中で歩いていました。

鳩が動き回る中、なんとか糸のほぐれた部分を探すも、もう外してあげられません。
それでも、彼女が「生」を全うしようとしている現実を、眼前に突きつけられれば、私も見守り続けることから逃げるまい、そう腹を括るしかありませんでした。
食物を謙虚かつ貪欲に求める姿。2本指で電線に乗る練習の姿。力強く飛ぶ姿。
2月22日、それまで上下に動かして痛むようだった右足が、ついに壊死しました。
その前から腫れが増し、変色もひどくなり「限界」が近いかと案じていた頃のことです。
うっ血が更に増したことに加えて、もしかしたら骨折があったかもしれません。

黒くなるだけでもショッキングですが、壊死した足は日に日に小さく枯れて行きました。

それでも・・彼女は変わりません。「なにか?」と私に微笑んで見せるのでした。
バランスがとれず右の羽がバサバサ地面を打っているのに。
食べるときには体がグラグラ揺れるのに。

踏ん張れなくて飛び立つのが難しそうなのに。

片足を失って1週間以上もそうして、弱りながら、最後まで平然と毅然としていました。
気づけば、どうやら一緒にいた群れごとゴッソリの引っ越しとなったようです。
「あの体で。どこまで苦労の多い子なのか!」と一時は嘆き涙しましたが、たとえ群れについて行けず力尽きても、それが梅桜ちゃんの望む「生」だったのでしょう、見せてくれた気概を想い、泣いていては失礼じゃないか、己の「生」はいかに?と省みます。
自然界で起こる事故や病気や怪我などは、別として。
今回は、人工物が野生動物を傷つけ得ること、それが現実に起きていて、いまも苦しむ動物たちが存在することをここに残すことにしました。
そして、野生動物の一部が、害獣・害鳥などと区別され傷病保護対象外であるという、収まりの悪い情報が心に留まっています・・・
駅に貼ってありました。
すてきな表現ですね!
昭和~平成中期まではこうではありませんでした。
キーワード「私たちが暮らす街は、人間だけのものではありません。」ですです。
キーワード「動物に対する社会の態度は、よりその文明レベルを映し出す。」ですですです。
11月2日の帰宅途中、近所の大通りに響き渡る子猫の声をきいてしまいました。
まだ2ヶ月ぐらいじゃないかと感じる小さな小さなキジ白ちゃん。
追いかけてみたり呼んでみても建物をいくつも走り回り右往左往でどうにもならず。

日が暮れた暗闇のなか、カリカリを食べてくれたのを確認してあきらめました。

翌日の3日は大通りの裏手にある住宅のお庭で発見。
入っていくことができずに呼ぶだけですが幸いなことに動きも声も元気です。
道路からお庭のほうをのぞいていると、塀の上に猫のシルエットが現れました。「あんな高いところに登れる?」と想った瞬間に猫は下へおりた模様。
すると、それを境にパッタリと子猫の声が止みます。
2日も鳴きつづけていた声が消えました。大人の猫に攻撃を受けた悲鳴もありません。
1週間ほど見回ってみてもピタリと静寂の風景です。

捨て猫ではなく、親子引っ越しの途中でではぐれたか・・・そうであってほしい。

マクラ、使いませんか?
私と一緒に寝る習慣のある猫たちとは、なんでもない日常の風景でした。
先日職場でお話ししたらば、そんなにフツウでもないらしい。
右むいて。左むいて。
頭は重いので。やっぱり支えてくれるモノは必要みたいです。
おととし遠近両用めがねを新調したところ、老眼対策としては頼れる度ゼロの存在でした。
ためしに100円ショップの老眼鏡を召還してみる。・・・す、すてき!♪ み、みえる!♪
読書や仕事で無意識のストレスを積んでいたことを実感。己の眼球に謝罪そして感謝です。

猫はというと、もともと近くがボヤケているらしい。至近距離でラブラブの顔は見えていなかったのね。

先日の「あえてよかった」に続き、新しい職場のKさんに伺ったホッとするお話。
Kさんのお宅では何年かごとにコウモリが室内に入ってきてしまうそうです。
天井にぶらさがった姿のまま、ほどなく弱って下に落ちてしまうとのこと。

調べてみるとほぼ越冬することは困難らしく。

あるとき、Kさんご夫婦はビーカー状の容器に布を敷きつめ、その中に弱ったコウモリを入れてあげます。
春が来て中をのぞいてみると・・・やはり永眠した亡骸がそこにありました。
自然は厳しいものだとあらためて感じさせられ、動物たちの苦難を想うと涙がでます。

ただ、このお話のコウモリは幸せに最期を迎えられたのではと温かくなれたのです。

野外や寒くて硬い地面で凍えてしまうことが常のありようだとすれば、やわらかいお布団とお部屋の中で、天敵や人間におびえることなく外気からも守られ、眠るように寿命を終え空に還ったのだと想像できました。
コウモリの魂が笑っていますように。
Kさんご夫婦に幸福の贈り物がありますように。
いまの猫(9歳)はお風呂場の浴槽で排泄(小)をしてしまうことがあります。
子猫のころに私の入浴姿を見てからのことなので、私の体がしゃがみこんだ形からトイレだと認識してしまったのかもしれません。
発見するたびに言いきかせて叱りますが、もはやあきらめモードで儀式化しています。

同じお風呂場にある猫トイレはきれいにしているんですけれどもね・・・

買いものの帰路、側溝の上にちょこんと座っていました。
持っていたフライビーンズをおすそわけしたけど、足りないよね・・・
夏に小学生がバカ騒ぎしてたから、居るんだなぁ~って気がかりではありました。

住んでいるアパートの敷地内を散歩する2匹を見かけたこともあり、近隣には多数生息しているもよう。

整地のため林が伐採されちゃったからかな。(木にとっても災難なこと)
それでも森や林が残る地域なので、なんとか夜のうちに少しずつでも移動してほしい。
・捕獲→例によって殺処分/・交通事故にあっても放置される

ありませんように!祈るばかりです。

新居に6月10日に移りつつも前の部屋の契約は6月末まで残しておいた。
それなのに仕事が無い状態だったのに、前の部屋へ通ったのは数回のみだった。
毎日行っておくべきだったと今さら悔やんでも仕方ない・・

掃除をしたのは2回のみ。その他の日は雀のちゅんに会う目的でお米だけ持参で。

ベランダで会えない状況になるまでに、いかにちゅんとの交流が大切だったものかに気づくことができず、そうなってから初めて心が叫びはじめた。
野生の鳥類:対:哺乳類だけれど、ちゅんと私の間にはたしかに絆が育っていた。
7月に入り数日、ちゅんを想って泣いた。
「会いにいこう」そう変われた。9月の平日は職場の昼休みを使って毎日通う。
天候などの理由でちゅん不在の日もあったけれども、ほぼ丸3ヶ月続けることができた。
が、それもとうとう今日を最後にいったん記録が止まってしまう。

明日からの新しい職場は昼休みに向かえる距離にないから、あきらめるしかない。

土日祝しか会いに行けない現実は1月末まで確定である。
平日に行けなくなること、ちゅんに申し訳なく、また私自身も耐えられる自信がもてず。
間隔があいてしまってもちゅんは会ってくれるのかな。

引っ越しのつぎに今度もまた再び、がっかりさせちゃうのかもしれない。

神さま。
これからもちゅんと会えますか。
ちゅんの寂しさと落胆が少なくてすみますように。どうぞお見守りください。
ヒトの感性が自然界に戻りつつあるのかな、と想えて嬉しいです。
好きな言葉のひとつ「上善如水」。
猫はまさに水のような生きかたです・・ほかの動物も、草花や樹木も、柔軟に変わりながら、こだわらずまっすぐにそこに在り流れ清め、美しく優しい姿です。

いつの日にかまた、地球上が古来からの自然共存の感覚に包まれますように。

何年かぶりに3種を打ってもらいました。9歳だからこれが最後かな?
あくまで私見で世間に広めるつもりはサラサラありませんが、わが家では高齢猫にはワクチンやめます。それから若くても3~4年あるいは4~5年の間隔をあけます。
お医者さんも全くの同意見で安心&納得できました。視点が近い獣医さんは心強いです。

予防はしたいけれど過剰な投薬は避けたいというのが、どうやら的外れではなさそうでマル◎。